2008年05月31日

バイエル12番

音楽的底なし沼の12番です。



音並びの美しさにほとんど頼ることができず、演奏者の音楽性を99%(印象値)注ぎ込まねばなりません。バイエル全曲のなかでも、音楽的表現において最難曲のひとつに挙げられます。自らの心の耳が磨かれてくると、特に12番はいくら演奏しても「これでよし」という音楽に到達することは難しく感じられることでしょう。それが「音楽的底なし沼」と名づけた由来です。
しかしながら、自身のピアノ演奏の進歩度合いを確認するにはうってつけといえるでしょう。106番を終えてから改めて12番に取り組むと、初めて12番のレッスンを受けたときより格段の進歩を感じることができることでしょう。その先のメソードに進んでも同様です。ただし、正統な音楽性をもつレスナーの下で研鑽を積むことが前提になっていることはいうまでもありません。
さて、かく言う私自身の演奏はブログ開設以来進歩を続けているでしょうか。そのような思いで録音に挑戦しました。
posted by ジュニア at 00:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 演奏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
先日のバイエルについてのコラム、興味深く読ませて頂きました。
さて、今回の12番ですが、最後のミレドのミの音があまりに小さくて、ここでこんなに小さくして大丈夫かしら、と最初どきりとしたのですが、きれいに終わっていて勝手ですがうれしい気持ちになりました。
私自身、5歳から13年ピアノを学びましたが、このような簡素な曲に真剣に耳を傾けたのは、初めてでした。構造が簡素だからこそ、美しさもまた簡素です。
そう感じさせて頂きました。


Posted by コモド at 2008年05月31日 23:34
>コモドさん
私のつたない演奏を聴きこんでいただき、とてもありがたく感じると共に気の引き締まる思いがいたします。私自身が気づいていない音楽的深みに耳を傾けてくださっているのかもしれません。
「簡素な美しさ」というご感想ですが、私も同じように考えていました。先日アップしたコラムは、元々そのことを論じようと書き始めたといういきさつがあります。
花に例えると、ショパン・ベートーヴェン・ドビュッシーなどの大家のピアノ作品はバラや蘭、満開の桜といった銘花の面持ちだとすれば、バイエルは道端に咲くオオイヌノフグリのようなたたずまいを感じます。前者は華やかで多くの人の目を引くものがありますが、花の真の美しさを知っている愛好家は、道端に咲く花や雑草にさえも美しさを見出していることでしょう。その視点が銘花をめでる時、思いもよらないような深い美しさに気づいているのではないかと思うのです。音楽においても、バイエルのような簡素でありながら正統な音楽の理解は、後に触れるであろう大家による作品の、音並びにおける華やかな面だけではなく音楽として深い美しさを感じとるための下地になることは間違いありません。
…というようなことを述べるコラムの予定でしたが、掘り下げて書いているうちに元ネタが入り込む余地がなくなってしまいました。ともかく、コモドさんが私と近い考えをお持ちのようでうれしく思っています。
Posted by ジュニア at 2008年06月01日 23:28
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