2008年11月24日

ラジリテ3番/コラム「練習曲におけるペダリングについて」

いつもご無沙汰で申し訳ありません。ようやく演奏とコラムのインスピレーションを得ました。





・コラム 「練習曲におけるペダリングについて」

現代におけるピアノを取り巻く環境では、練習曲にはダンパーペダルを使用するべきではない、という考えが大多数を占めており、その訳として、ペダルを使用することで演奏をごまかすことができるからという意見をよく耳にします。ペダルを踏み打鍵することによって他の弦と共振するので音響的な広がりが生まれますが、この事象を「音が広がって聴こえるからピアノがうまくなったように勘違いしてしまう」と捉え、先に述べた演奏のごまかしにつながるのでペダルの使用は控えた方がよい、と考えられていると推測できます。
しかしながら、これはペダルの使用に対する誤解を有していると私は考えます。なぜなら、本来ペダリングはピアノテクニックの一つとして厳密に学ばれるべき事柄であるからです。レスナーは学習者が初学の段階からペダリングのセンスを伝えていく必要があります。バイエルで言うならば、冒頭の予備練習に対する補助伴奏や、第1番からの連弾の段階から、レスナーはペダルを使用してピアノの音色の美しさを打鍵法と共に学習者の耳に対して訴えかけねばなりません。当然のことながら、これらのことはペダリングに対して深い理解のあるレスナーからしか学ぶことはできませんが、もし幸運にもそのようなレッスンを受けることができ、いざ、自らペダリングを実践する段階に立ったとき、その機微に対して注意を払わずにはいられないはずです。ペダルで演奏をごまかすなど思いもよらず、それどころか「ペダリングはごまかしがきかない」とすら感じることでしょう。
ピアノの演奏というと鍵盤の操作に多くの意識を奪われてしまいがちですが、本来、鍵盤とペダルはピアノ音楽の表現において等価に扱われるべきものです。どちらもピアノ音楽における表現手段であることに変わりがないからです。歴史的に見れば、ピアノの発展に深く携わってきたピアノ技術者・作曲家・演奏家たちが、ペダル(ダンパーに限らず)を音楽美の表現のために必要であると判断し、時代が下ってそのセンスが受け継がれ、洗練されて現代に至っているのです。我が師である野村茎一先生は「本来、ダンパーペダルを使用すべきところで使わないのはピアノへの無理解」であると述べられています。ペダリングの問題をなおざりにすることは、ピアノテクニックに対する無理解の表れであると言うことができ、ピアノ音楽における正統なセンスから逸脱することと同義です。そのような演奏は、自然に根ざした美しさから遠ざかってしまうのではないかと私は考えます。
当ブログの演奏音源は必要に応じてダンパーペダルを使用しています。もちろん、バイエル・ツェルニーに対しても然りです。特にバイエル上巻は音並びが疎ですから、ペダリングによって得られる効果は「静謐な豊かさ」と言い表したくなるような美しさを感じます。バイエルの演奏でペダリングをなさったことのない方は、ぜひお試しになってみてください。その匙加減の難しさを克服することによって得られるであろう美しい響きは、あなたを虜にすることでしょう。

11/25追記:コラムのタイトルを改めました。
11/29追記:本文の一部を改訂しました。
01/03追記:本文の一部を改訂しました。
posted by ジュニア at 21:03| Comment(6) | TrackBack(0) | 演奏/コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月12日

ツェルニー100番練習曲より第12番/コラム「音楽は一期一会」



ツェルニー100番シリーズ、いかがでしょうか。


・コラム「音楽は一期一会」


我が師である作曲家の野村茎一先生からのレッスンでご教授いただいたことなのですが、先生の師である作曲家の土肥泰(どい・ゆたか)先生からの作曲についての教示の一つとして、「ある人が一生のうちにあなたの作品を一曲しか聴く機会がなかったとして、それで悔いはないか」というような事をたびたび問いかけられたそうです。
何度も再演されていたり、録音として残されている曲は別として、たいていの場合は作曲家による音楽作品が、ある人の耳に入ることは一期一会といっても過言ではないことでしょう。その希少な機会に、自身の作品一つをもって聴く人を魅了することができるか。作曲家にとって常に志しておくべきことであると感じます。
この言葉は、作曲家ではない私にも示唆を与えてくれます。なぜならこのことは曲を演奏する側にも言えることだからです。すなわち「ある人が一生のうちにあなたの演奏を一回しか聴く機会がなかったとして、それで悔いはないか」と言い換えることができます。当ブログにアップしている私の演奏でもって、それを聴いてくださる方にバイエルの魅力を伝えることができるだろうか。評判の悪いバイエルを題材にしている以上、聴く方にその誤解を払拭するような演奏である必要を常に感じています。しかしながら、「わかりやすい」とか「面白い」などの一時的な興味を引くつもりはありません。あくまで、正統的美感と私自身の音楽とのすり合わせの結果を提示することを目的としています。演奏が未熟さ甚だしいのでアップするにも気おくれを感じてしまいますが、これからも精進を重ねるしかありません。
話を戻しますが、土肥先生の教示は音楽を聴く側にもあてはまるといえるでしょう。もし、素晴らしい作品や演奏に出会う機会があったとしても、聴く側にレディネスがなければその音楽を理解することはできません。その作品・演奏をそれ以後一生聴くことができないとすれば、その音楽に対する理解は一生叶わないことになります。
私は作曲家や演奏家ばかりが音楽家ではないと考えています。音楽を聴き、その美しさを感じることができる人も音楽家であるということはできないでしょうか。三者ともに音楽性の根本は共通するものであり、その発揮の仕方が異なるだけだからです。音楽を聴くということについて今一度、想いを馳せてみてはいかがでしょうか。新たな発見があるかもしれません。
posted by ジュニア at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 演奏/コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。